一乗谷朝倉氏遺跡資料館を訪問。
令和2年8月25日
出土した朝倉椀の実物を見せていただきながら、出土漆器の専門家である宮崎認主任より様々な話をお聞きしました。出土品なので完全な形ではありませんが、信長に焼き討ちにされた1573年9月で時間が止まっているお椀です。お椀を手にしていると使った人、作った人の息遣いが聞こえそうです。
この後も宮崎主任には折に触れアドバイスをいただいております。朝倉椀チャレンジの心強い相談役です。
蛭谷の筒井神社に参拝。
君ヶ畑の大皇器地祖神社に参拝。
木地師資料館を訪問。
令和2年10月11日
木地師根源地と言われる滋賀県小椋谷にて、全国の木地師の想いが集まる両神社を参拝して、朝倉椀チャレンジの成功を祈願いたしました。
あわせて木地師研究者の筒井正さんと木地師資料館を管理されている小椋重則さんを訪問。木地師の空気感が漂っている滋賀県小椋谷にて、木地師の生活ぶりなどの話を伺いました。山と里ではやはり自然に対する感覚が大きく違うと感じます。現代の我々は里の人。木地師は山の人。
糸魚川の木地屋の里を訪問。
木地師研究者で、特に手引き轆轤についてご専門の小椋裕樹さんに木地師のこと、塗師を兼業とした歴史、手引き轆轤についてお話をお伺いしました。手引き轆轤は遅くとも奈良時代にはすでに存在し、昭和まで使われていた道具です。しかもその間、簡素な構造をほとんど変化させていません。小椋さんはネパールの手引き轆轤の調査もされています。手引き轆轤は日本に限ったものでもなく、もっと普遍性のある道具のようです。日本では1000年以上も使い続けた道具でもあります。手引き轆轤はよほど人間の身体性と相性のいい道具だったのだろうと思います。逆説的ではありますが、今使ってみて違和感を感じるのだとすれば、それは現代人の私たちが本来持っていた身体性をすでに手放してしまっているということかもしれません。
「奥会津の木地師」の上映会。
令和3年1月24日
福井県立歴史博物館にて「奥会津の木地師」上映会を開催いたしました。文献から知ることのできる木地師の仕事は具体的ではなく、実践してみようとする私たちはすぐに行き詰ってしまいました。そんな時この映画の存在を知り、何をどうすればいいのかハッキリと知ることが出来ました。大変ありがたい映画でした。もっとも、そこにはおそろしく大変な仕事ぶりが描かれていましたので、上映後は決意を新たにいたしました。
お椀となる材木を探す。
令和3年5月15日
朝倉氏遺跡にて出土しているお椀の中で上級なものの木地はケヤキでした。今回は池田町の林業家、江端俊慧さんのご厚意で、写真のケヤキを使わせていただくことになりました。一乗谷と池田町は地理的にも近く、出土したお椀の木地が池田町のケヤキであったとしても全然不思議ではありません。
江端さんとの出会い、そして我々を待っていてくれたかのようなケヤキとの出会いに感謝。
木地師カンナの製造。
令和3年5月30日
現在、木地師カンナはハイス鋼で出来たものを使っていますが、もちろん戦国時代はたたら製鐵で造られていました。どんな高回転にも負けないハイス鋼ではなくデリケートなたたら鋼は手引き轆轤によく合う道具だったのではないかと考えました。そこでたたら製鉄の研究をされている原義樹さんと月山派の刀匠、川瀬貞真さんに依頼して木地師カンナを作っていただきました。原材料には九頭竜川河口付近の砂鉄を用いています。100%のメイドイン越前です。たまたま近在にお住いだったお二人との出会いに恵まれ、戦国時代も木地師カンナのような道具は越前国内だけで製造できていたはずという朝倉氏遺跡資料館宮崎主任の指摘どおりに復元製造することができました。
手引き轆轤の製作。
令和3年7月18日(日)
朝倉椀チャレンジの要と言っていい手引き轆轤を製作いたしました。特に軸は木地師にとって特別なものであったといいます。手引き轆轤本体と軸の製作手順も小椋裕樹さんの研究をふまえて当時のやり方で製作いたしました。おそらく身の回りにあった木地師道具を用いて製作されていただろうと考え、鋸、手斧を使用しましたが、現代の私たちには十全に使いこなすことができず、出来上がったものも当時の木地師からみれば稚拙なものになったと思います。一方、工程のポイントではちゃんと使えるかを確認し調整しながら製作いたしましたので、その点は合格点をいただけるかなと思っています。
「綺麗に作ることに意味はないよ。ちゃんと使えればそれでいいんだよ」と当時の木地師さんの大らかな声も聞こえたような気がして、なんとか作業を進めることが出来ました。
(画像は小椋裕樹著「手引きろくろの文化史」より)
手引き轆轤の脇役たち。
手引き轆轤製作の下準備として製作した部品を紹介します。
●まずは手引きの縄です。今回、関川しな織協同組合さまに特別にしな縄を製作していただきました。よく使われていたのは麻縄であったかとも思いますが、麻縄はけっこうな頻度で切れるらしいので今回は丈夫なしな縄といたしました。
●しな織は三大古代布と言われており、シナの木の樹皮を剥ぐところから始まって大変な手作業の積み重ねで出来ています。
●引手の持ち手部分は棒だったり、ただの結び目だったのかもしれません。今回は環を現代の轆轤で挽いて製作いたしました。
●環をしな縄で結んでいます。漁師結びと言われる結び方です。この結び方がいつからどの文化圏で使われているのかは不明です。はたして当時の木地師はどんな結び方をしていたのでしょう。
●軸に差し込む芯とツメは和釘工房青山さんに火造りで製作していただきました。正確な円断面が求められる芯は鋳造だったのか鍛造だったのか謎のままです。ツメには抜けないように返しをつけていただきました。
●しな織ができるまでの工程をイラストで説明しています。
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軸を挽く。
手引き轆轤の軸を挽いています。手引き轆轤の軸も手引き轆轤で挽きます。軸が出来たらその軸の首部分に合わせて台の軸受けの位置を(写真では向かって右の方に)ずらして据え直します。
画像、動画は軸の首の所を挽いているところです。ここは軸受けの厚みとの精度が求めれれる場所で慎重に現物調整をしながら作業をしました。アソビが大きいと実際に椀を挽く場合に前後に軸がぶれることになってしまうからです。
斧の講習をしました。
令和3年9月4日
講師は古武道歴30年の原さん。まずは、どうやって倒すのか。樹木の性質を知り、安全に倒す手順を学びました。
斧を打ち下ろすものの、初めて斧を持つ我々は刃筋が通りません。野球部出身の奥村君はさらりとやってのけるかと思いきや意外と苦戦。女性の垂水さんが一番上手だったかも。
戦国時代の木地師さんがどこか遠くから、ひやひやしながら眺めていると思います。さらに稽古が必要ですね。
漆掻き体験。
令和4年8月7日
茨城県大子町
・令和3年度に計画した漆掻き体験は令和4年に延期し実施いたしました。朝倉椀チャレンジの漆は、令和3年8月に搔き立ての生漆一貫目を大子町の飛田氏よりお送りいただきました。 感謝。(2021/8/24)
越前は漆掻き職人のたくさんいたところで、数十年前まで越前の漆掻き職人はシーズンになると全国に漆を掻きに行っていました。そういう歴史もあって現在、越前の掻き方は全国の漆産地で行われています。
現代でも漆掻きは重労働ですが、それは昔と変わらず機械に頼らない手作業の仕事だからだと思います。戦国時代もおそらく(当時の人にとって重労働かどうかはさておき)同じように漆を搔いていたはずです。
さらに今回、研修に行ってみて分かったことがあります。漆の木の管理、漆の林の管理が実は大変だということです。例えば下草刈りですが一年に4回行っておられるそうです。枝打ちも毎年して写真のような漆の掻きやすい木に育てていきます。いつも注目されるのは漆掻き作業ですが、それまでの十数年間、しっかり漆の木を育ててこられたからこそ十分な漆を得ることが出来るわけです。
縄文の村にも植樹されていた漆の木ですが、今も昔も漆は貴重です。一滴一滴集めていきます。漆が貴重だということは、漆を掻いているわけではない現代の塗師の漆の扱い方にも表れていて、一滴たりと無駄にしないことが徹底されています。
また漆は、今も昔もカブレるという性質から普通の人には扱えない存在でもあり、戦国時代においても漆器製品は特別で貴重なものであったろうと思います。
漆のくろめ。
令和4年7月29日(金)9:00より
・福井県鯖江市河和田町15-1
・参加アリ
生漆から「くろめ」という工程を経て素黒目漆という塗料としての漆を精製します。夏の晴天の日に、写真のように桶に生漆を入れ攪拌しながら水分を飛ばしていきます。最初は乳白色だった生漆が徐々に茶黄色っぽく透明になり素黒目漆となります。4時間かかることもある「くろめ」ですが、今回は気温も高くおよそ2時間30分で作業を終えることが出来ました。
奥会津博物館訪問。
令和4年8月6日
今更ながら映画「奥会津の木地師」の聖地巡礼です。令和3年11月の「ケヤキ伐採から粗挽き」では、映画のように荒型を加工することが出来ず、ブナとケヤキの違い、地方による植生の違いなどに気づかされました。その後方向転換して鋸を使うやり方で何とか先に進みましたが、奥会津博物館の展示に「ブンギリ」という方法が提示されていました。結果的に私たちはブンギリを採用していたわけですが、こんなやり方だったはずだと想像した方法が歴史的にも根拠のあるやり方であったということが分かりホッといたしました。
黒漆と朱漆を練る。
令和4年2月、8月
・福井県鯖江市河和田町15-1
素黒目漆という塗料としての漆に水銀朱の粉を混ぜ、練ることで朝倉椀には欠かせない洗朱漆を作ります。戦国時代での黒漆の作り方は水酸化鉄を混ぜて作る現代とは違い、油煙や松煙の紛を混ぜて黒色にしていましたので今回のチャレンジで使う黒漆もそのように作ります。
今回、辰砂から水銀朱紛を作る工程もやってみようかと思いましたが、勝手に辰砂を採掘することが法律で禁じられており、水銀と硫黄と反応させる朱の精製方法は十分な知識と設備がなければ危険であることが分かりました。また戦国時代にはすでに朱紛は全国に流通していて、越前の塗師もそれを購入していたと思われます。よって今回は水銀朱粉は購入をすることにいたしました。
「刷毛や狐」訪問。
令和4年8月6日
会津若松市
戦国時代の漆刷毛は現代と同じ人毛で作られていました。ただし鉛筆のように新しい刷毛を削り出していく形になったのは江戸時代になってからのようです。。細くしなやかで強い人毛。漆刷毛にはとくに日本人の髪の毛がよいそうです。写真は美しいヒノキの割板。漉いたのちに漆で板状に固められた人毛をヒノキ柾目板で挟んで刷毛に仕上げます。
人の髪の毛、ヒノキ、漆。漆刷毛は100%自然素材でできていました。